昭和52年01月18日 月例祭



 最近暇あるごとに、阿倍野の教会の伊藤先生のお話になられた、また、あちらのお教会の事などが書いてあります御本を先日頂きまして、繰り返し読ませて頂いております。一人の助かりが、千人も万人もの助かりになるから、人の手本になるような信心をせよと、教祖様は教えておられます。まさしく教祖様のお言葉通り、ただ女の身でありならが、お道の信心をいよいよ深めてお出でになり、名実共に日本一のお教会として、隆々たるごひれいを受けておられます。
 その先生のお話を、お書物で頂かせて頂いておりますと、もう別に奇な事異な事が全然ありません。もう実に平凡なんです、仰っておられる。実意丁寧正直を、まぁあもっとうとしておられる。実意丁寧正直。繰り返し読ませて頂いておりますと、前の度にうかつにしとった所が、改めて有り難く頂ける所があります。今日読ませて頂いておりましたら、信心を深め、おかげを受け、お役に立つ、お役に立ちたいという、その三つの心が心の中に卍巴になって、それが熱してくる。
 これが金光様の信心だと言っておられます。ね。信心を深めおかげを受け、そしてお役に立つと言う事。信心を深め、もう私は何十年信心しとりますと言うから、ずいぶん信心も深めておられるであろうし、金光教の信心のことも、よく詳しくなっておられるけれども、大しておかげを受けていない。おかげはもう人がたまがるように受けておるけれども、お役に立つという事は、非常にお粗末であるね。
 信心が育つと言う事は、信心を深め、おかげを受け、お役に立ちたいという一念を燃やし、その三つの心が心の中に卍巴になって、熱をおびて来る。それが信心の成長でありますと書いておられます。信心の成長とはそう言う事。一生懸命に参りよる事、ただ一生懸命御用が出けておる事というだけではいけない。信心を深め、信心を深めたら、それだけのおかげを受けなければならん。信心を深めておるようであっても、それこそまぁ御用御用と言うてね。
 一生懸命御用をすりゃ助かるように言われるから、一生懸命御用をするけれども、助からん。一生懸命参りよるけれども、おかげを受けない。どこにかそこに間違いがある。もう、実にすんなりと信心を深め、おかげを受けてお役に立ちたい。この三つが熱をおびて来ると言う事です。合楽の場合はどう言う事になっておるだろうかね。信心を深め、おかげを受けておる。なるほどお話は、まあ徹底したおかげを頂いておるけれどもね。おかげは受けておるけれども、お役に立ちたいという一念が生まれて来ない。
 今朝私は朝の御記念中に、世界清め運動と言う事を頂きました。世界を清める運動。えらい大きな事のようでありますけれども、私共がもし心が清まり、そしていわゆる信心を深めておかげを頂いて参りましたら、どうか私のような者でも、この様に助かって行けるのですから。霊肉共に心も助かる、形の上人間の幸福の条件の、まあ様々な条件が足ろうて来る。
 だから私ぐらいな者の信心でもこのようなおかげが受けられるから、隣の人もこんなに助かったら良かろう、自分の知っておる限りの人達も助かられたら楽になるだろう。世の中が明るくなるだろう、また清まって行く事であろう。とそういう思いが募ってくる。ね。それがそのまま世界清め運動だ。世界を清めて行く運動。それは、ずは、私自身の心が清められなければない。自分ところの表に、こっちはもういっぱい散らかっとる。他所の庭ばっかこげんやって履いてやっとったっちゃいかん。
 それかと思うと、自分のお家の前だけは綺麗にしてから、ゴミは向こうさ、隣の方さやってしまう(   )。これでもいかんですね、そんな人がありますね。もう自分方前さえ美しゅうなりゃよか。もう他所はこうやって。道じゃろうが隣じゃろうが、もうこうはねこじらけたようなね。それではやはりいけない。自分方が清まると同時に、それはもう世界の一部が清まったと同じ事ですから、その清まりを隣にも、また向こうの隣にも広げて行くと言う事。
 それには、信心が深まって参りませんと、そげな赤の他人の事まで祈るとか、願うとか。ましては、世界中の総氏子の助かりなんて願う心すら起きて参りませんね。信心を深めて参りますと、自分の周辺の事が祈らず、願わずにはおられない。今日は研修の時に、お話をした事でした。昨日テレビを見せて頂いておりましたら、キリスト教の牧師さんのお話があっておりました。人間は、もう慣れると言う事が一番つまらん。
 本当に自分の周辺を眺めて見ると、言うならば御恩恵、お恵みの中に浸っておるのだけれども、なかなか喜びが湧かない、感謝の心が湧かない。これを一つ見て下さいと、小さい映画を写して、そして、それをまた説明しておられました。というのは、二人とも目が見えないんです。盲目さんです。二人とも按摩さんですね。実に睦まじい。自分の家には小鳥が買ってあって、小鳥が部屋の中に、放し飼いにしてある。ご飯やら食べらられると、腕に止まったり、手に止まったりして、その一緒にご飯を食べる。
 もう実に、仲睦まじい、言うならば夫婦だけではない。そういう、小鳥との上にも何とも言い知れん、まあ、やわらかな喜びの生活が出けておる。散歩に出るのも二人連れ。お仕事に行くのも二人連れ。実に仲むつまじゅう生活をしておる。目の見える人から見たら、本当に気の毒な、不自由な事であろうと思うけれども、目の見える人よりも、かえって円満な、言うならば光の生活をしておるんだと、そういう映画を、これは実際の人のその、まぁのでございました。
 それを見せてから、また、それを話しておられますね。目が見えなくても、こんなに喜びの生活が出ける信心の生活というものは、こんなに尊いもんだと言う訳です。で、私はそれを見ながら思いました。あのくらい、例えば目が見えなくても、不自由であっても信心の喜びに浸って、あの言うならば生活が出けておるならば、もしあれが合楽なら、目が見えるごつなるだろうと思いました。
 今の宗教はね、ここまでしか説かないようですね。金光教なんかも、そういう風にだんだん成りつつあることが、生きたものを無くして行っておるように思いますね。阿倍野の先生が言われる、信心を深め、おかげを受けると言う事は、例えば目くらさんが目が開き、ちんばさんが、ちんばが立ち上がり。人が助からない、もう医者も助からないという者が助かって行くというおかげを受けるから、そこに感動が生まれて来るね。
 昨日、一昨日、福岡のあれは(何とか    )ち言ったですね。毎日、二本ずつもここにモリヒネを注射しなきゃならないと。それがおかげを頂いて、今日で丁度三十一日、痛まんなりに続いておりますと。ところが先生その病院が段々、段々患者さんが減って、今、私どもと共に四人しか入っておられん。お医者は毎日来てから、そげなはずはなか、そげなはずはなかと言うて首を捻られるけども。
 注射を打つ事もいらん、薬を与える事もいらんから、もういいかげん退院させてよかろうと思うけれども、もう三十一日も痛まんでおるのに、お医者さんのお世話にならんでおるのに、退院しようと言わっしゃらん。もう今患者が少なったけんで、やっぱ引き止めちゃるとじゃろうち思います、と言うてもうそういうおかげを頂きながら、お医者さんに不平不足が出よる。人間ちゅうもんはそんなもんですよね。もうお父さん本当にあの、とにかく見ちゃおられんような、あの苦しみの時に、お医者さん呼びに行ってから、さあ注射をしてもらわんならん。
 しかもその注射が一年も続いたら、必ず死ぬると言われるほどしの難病を、おかげを頂いて、医者におりながら、薬も飲まんでも、注射もせんでもよか。お医者さんが毎日来て、首をかしげなさるように、不思議がられるほどしに、おかげを頂いておるちゅう事は、とても有り難い事ですばいと言うて、お礼だけ言うときゃよかけれども、もう言うならば目が見えるごつなったら、今度はいらんところまでが、今度は見えてきて、不平不足になって来よる。ね、
 お医者さんにはお医者さんの、やっぱ考えがある事でしょう。その方が言われるように、もう患者が少なくなったから、いつまっでん引き止めちゃるとじゃないから分かりませんよね。そりゃ医者の立場でしょう。ほれで私は研修の時に、その目くらさん達夫婦の話をさせて頂いて。合楽の場合は、こういう風にだんだんおかげを頂いて、信心も分からんのにおかげを頂いておる。ましてや信心の喜びが少しは分からせて頂いて、目くらが、目が開いたというようなおかげを頂いたら。ね。
 それこそ、目くら同士で、器量が良いじゃ悪かじゃ分からなかったところが、目が見えたところが、あんまりおっぺしゃんじゃったもんじゃけん、(だくじょ?)のごつしてござるもんじゃから、途端に夫婦が仲が悪うなったち言う様な事に、そのなり兼ねないちゅうか、そういう傾向が合楽にはあるようだねと言うて、まあ笑い話のようですけれども、これは本当な事なんです。
 おかげを受けたことが、かえっておかげを落とす元。もう、信心がそれまでになってしまって、ね、おかげを頂いて、ない命を助けて下さいと言うて助けて頂いた。その青年がおかげを頂いて助かった、元気になった。村内の不良青年と付き合うようになって、牛泥棒をするようになった。先生、もうあん時に助けてもらわん方が良かったというような事が、椛目時代にございましたよ。もうあん時、助けちもらわん方がよかったち、こう言うんです。もう粟粒結核で医者は助からんち言うとった。
 それが助かった。助かったら元気になって、まるまる肥えちから、不良青年とその夜遊びやら何からしてですね、金が足らんごんなったけんで、牛泥棒までして。それが新聞に載ることになり、もうお母さんは、もう本当に、あん時助けてもらわん方が良かったというような事になって来たね。目が開いた途端に、嫁子さんの器量悪かとが分かった。昨日もその写真も、あのテレビもです、ご主人のは、なかなか器量が良いです。ばってんその奥さんの方が何かこう、やっぱおっぺしゃんの部類の感じでした。
 あげんとば、(また団子汁)ちゅうたろうと思うね。はっは。ほれけんもう目の見えるごとなった途端に、今まではね、分からじゃったけんで仲が良かったところが、もう目が開いた途端にその奥さんが嫌いになって、仲が悪うなると言った様なです、例えばね、そういう傾向が合楽にはなる。そこには、何と言うてもおかげも頂かなければなりません。昨日の朝、安東さん、直方の安東さんが、今寒修行中ですから、晩に見える。そして、明くる朝の寒修行を頂いて帰られる。
 昨日の朝、自分のお導きしておられる方から電話がかかってきた。目が見えなさらないという人であった。ところが、もうあんまり有り難いもんじゃから、安東さんがこちらにおられる内に電話がかかってきた。その電話が、ね、お夢の中で、八百万の神々が手術をするというお言葉を頂いたね。八百万の神々が手術をすると。そして目が覚めたら、目がハッキリ見えるっち。
 もうビックリしてしもうてから、もうあんまり有り難いから、その安東さんに電話をかけてきた。ご主人は俺も今日は不思議なお夢ば頂いた。自分の腹の中から蛇がどんどん出て行くところを頂いた。そういう働きを頂いておるわけね。合楽では、そういうおかげが、最近のごとあれば、もう毎日のようにそういう奇跡が続いておりますけれども。見えるようになった途端に、夫婦が仲が悪うなるといったような事では、神様も悲しい。神様も同じ気持ちだという事になります。
 そこでね、信心を深めるということ。そしておかげを受けるということ。そして世のお役に立つということ。ここで言われる五つの願い。どうぞこれだけは、もう御神前に向かう度に、皆さん願わなければいけないと言っておることが、第一が、体の丈夫である。第二番目が、家庭円満。家庭に不和のなきがもとと言われる。それを願うて行く。第三番目には、いよいよ家繁盛子孫繁盛。私どもの代だけではない、子にも孫にも伝わって行くようなおかげを頂かせて下さいと願う。
 けれども、そういう人間の幸福の、言わば条件であり、誰しもが求めておる願い。健康、円満、そしてあの世までも持って行かれ、この世にも残しておけると言う様な家繁盛、子孫繁盛の願いというものを、誰でも願っておる。けれども、願うからにはです、どうぞ、四番目にはね、ね、御用が出ける事のために、神様に喜んで頂く御用が出ける事のために願えと言ってあるね。五番目には、神様、神の願いが成就することのために。私どもの願いではない。
 神の願いが成就することのために、どうぞ人間の幸福の条件のすべてを与えて下さいと、繰り返し、繰り返し、これはどれだけ願うても良いということ。神様はそういう願いを、ね、聞き届けて下さった時の神様の喜びというものは、それこそ神様が、天にも、まあ、地にも、ね、その喜びをみちみち、みちとした喜びを、天地が感じて下さる時なんです。私どもが、そういうおかげを頂いた時なんですね。
 そこでですお役に立ちたい、お役に立ちたいの一念が、言うならば信心を深めねばならんという事になりますね。お役に立ちたい。自分のような者でも、この世に生を受けて、来たからには、自分の生き甲斐というものがです、私が一人助かったことの為に、千人も万人の者が助かるようなおかげを頂かせて頂く事の為に、幸福の条件の全てであるところの、ね、経済の上にも、家庭円満の上にも、または健康の上にもおかげを頂かせて下さいという、そういう願いを持って、おかげを段々頂いて行くならばです、信心を深めて行くならばです、いよいよ神様の願いに応えられる。
 言うならば、世界清めの大運動に参画させて頂けれるほどしの信心を目指さなければいけないと、私は思います。ね。これは阿倍野の先生の、事実、阿倍野の先生があのようなおかげを頂いておられるというのが、どこに、そのおかげの元があるかと言うとです、信心を深め、おかげを受けられて、そしてお役に立ちたいの一念を燃やされたところに、そういうおかげが受けられるのであった。ね。
 ただそれだけ簡単な事ですけれども、信心を深めて行くためには、様々な深めて行く材料を、神様は沢山準備しておられたに違いはない。その信心を深めて行く、分かって行く為の準備というのは、それこそ、血の涙が流れるような事もお在りになったであろう。痛い痒い思いをなさった事もあったであろう。まだ二十いくつでご主人を亡くしておられますから、生身を持っておられる女性の身としてです、本当にそれは大変な難儀な克服してお出でられた事であろう。
 そういう様々な事が全部、どう言う事でも全部、いよいよ信心を深めて行く材料になさったということである。十八歳の時に、神様に誓われた。もうとにかくね。ままかかさんが、魚の食べられんごたる頭んとこだけ出した。そしたらお母さんが自分に、頭のところ、人の頭になれ、人の頭になれと言うて、頭を食べさせて下さると言うて、お礼を言うた。今度は尻尾んところを出した。ところが尻尾のところは、お母さんが、大阪辺りでは、あの、魚の尾というわけ、尻尾のことは。
 だから王になれ、王になれと言うて、出して下さったと言うて喜んだ。もういよいよモヤモヤしたままかかさんが、真中のよかとこだけ出した。もう自分ぐらいな者にこんな美味しいところを食べさせてもろうてと言うて、もうどこを出されても、有り難い一念で。この話を聞かれたのが、十八才の時。これは、落語か何かの話。その話を聞かれたとが十八才ですけれども、それ以来というものは、一切どういう、それこそ魚の腸のような物を出されても、有り難いで受けて行かれた。
 そしてこの世には決して難儀な事はない。もうみんな神様がお徳を下さろう、光を下さろう、力を与えて下さろうとする働きだけしかありませんよというのが、んなら先日、先生のところに行って、何日も修行させて頂いて、先生の信心を頂きたいと思うて見とったけれども、なかなかお話で分かる事なかったけれど、いつ見ても、いつお会いしても、その先生がいつもにこやかでおられると言う事であったと言う事です。ね。
 御本部参拝を十日にしようと思うておられたところが、本部の方から七日に参って来いって言うて来た。七日土曜、日曜を限るから、もう皆が信者が大変不平不足を言うた。ところが神様が力を与えて下さろうと思うて、七日という日をお示し下さったのだから、力を受けたい、神様が、ね、力を与えて下さろうとする力を頂きたい者だけ参れと言われる。今までは列車二本だったのが、その時は列車三本のお参りがあったということです。去年の十月の御大祭のお話なんですね。
 人を恨むでんじゃない。その恨まねばならないようなその事柄がです、神様がおかげを下さろうとする働きであると頂き止められる信心が、五四年間続いておるところに、今日あの阿倍野教会の大ごひれいがある訳です。先日の御大祭が、四千五百名の御参拝であったそうです。ね。それはたった女の身ながらもです、ただもう喜び一筋を持つ。いや信心を深めると言う事は、信心をしとれば一年一年有り難うなって行くと仰るが、ただ信心をしとれば一年一年有り難うなって行くのじゃない。
 一切を有り難い御神文で、御神愛であるとして受けて行く様な稽古をさせて頂くから、一年一年有り難うなって行くのである。その一年一年有り難うなって行く、その有り難い力を持って、世のお役にも立たせて頂こう、言うならば人の手本になるような信心とは、そういう信心を言うのだと思う。神様がかけられる合楽への願いというものは、大きいと思う。ね、それこそ世界清めのお役にも立たせて頂けよという、神様の大願が合楽にはかけられておる。
 合楽の信者、信奉者の皆が、信心を深めておかげを受けて、そしてお役に立ちたいという一念。そういう自覚。に立たせて頂いて信心をさせて頂いておるとね。神様がそういう御用に使うて下さる。願わなければいけない。だから、ただ、おかげを頂いたら、おかげを頂いた事が、かえって、目が見えるごつなったら、色んな不平不足が出て来るようになった。先ほどの、(今から?)三十一日痛まんでおるという、病院から返されないと言うて、もうそこに、ね。
 死ぬほどのその苦しみからおかげ頂いておるという事だけ思うときゃ有り難いのですけれども、もう人間というものはそういう、我情やら我欲がすぐ出て来る。そこで、信心のその始めから、信心を深めさせて下さい。おかげを頂かせて下さい。そしてお役に立たせて下さいという願いが、三つが卍巴のように、自分の心の中に燃えて来るようなおかげを頂きたい。そういう信心を、いよいよ身につけて行きたいと思います。
   どうぞ。